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01 July

初めて具体的に語る自伝・・・『共育』ということばに共鳴・共感して【1】

長坂憲道ブログ

実は今年の4月から大阪府立の高等学校で音楽科の授業を受け持っている。ただし非常勤講師として。あくまで音楽家・アコーディオニストという立場には今までと全く変わりない。

「音楽」だけを教えに行っているわけではない。僕は音楽が好きだから、音楽が得意だから、その「音楽」を通じて子供達に高校とは、オトナとは、社会人とは、という総合学習的な内容を教える授業なのである。大学を出てそのまま先生になった人達には絶対に教えることの出来ない内容ばかりが盛りだくさんだ。

そもそも僕自身は俗に言う「落ちこぼれ」であり、中学3年生の時には学級委員みたいなモノを勤めていたモノの、バンドのこと以外はまるでダメな男の子。音楽以外には全く取り柄もなくバンドだのロックだの言っている不良扱いの中学時代。もちろん軽音楽部なんてものは中学校に有るわけがない時代。

「ちがう、俺は違うんだ!」って表現する方法が全然判っていなかった少年時代に、必死に無い知恵を絞って文化祭のステージでバンドのライブが出来るようにと考えに考えた。

その気持ちを根気よく拾い上げてくれる先生が一人だけ居たのが幸いし、クラシックギター部所属するという形を執って、バンドをやる部門を作れば良いとの知恵を授かり、見事に文化祭でライブを敢行。

中学3年の段階では「どこの高校にも行けない」とのレッテルを貼られていた。内申点も非常に低く公立高校の受験は難しいと言われ、最もレベルの低い私立高校を受験するも当然不合格。

その後2次募集で定員割れしている新設の私立高校になんとか引っかかり、なんとか高校生には成れたモノの1学期で退学。そこからはバイクを乗り回しブラブラしながら、新聞配達のバイトをしながら16歳の夏・秋・冬を過ごしていた。

この間にはやんちゃな事を繰り返しては何度も警察のお世話になり、家庭裁判所なるところにも足を運んだこともあるが、友人・知人の薦めにより再度高校へ行くことに決心。最も偏差値が低く、これまた定員割れしている公立高校を受験し、17歳の高校1年生に。

やっぱり高校なんて嫌だ、しんどい、めんどくさい、なんて思って辞めたくなったが、貴重な仲間と先生に恵まれた。バンド活動に熱を上げ、当時軽音楽部の無かった高校では「有志ロック」と呼ばれる任意集団で文化祭ライブを主催することが許されていた。しかし、段取りは全て生徒達のみで費用は自費。みんなでアルバイトをしてお金を出し合う。

18歳になった高校2年生の頃には、中学時代からのバンド仲間は当然高校3年生。芸大への受験などが話題になり始め、羨ましく思うも、僕の行っている高校では4年生大学に行けるヤツは2〜3人がせいぜい。

担任の先生に相談するも、専門学校の方がいいのでは?なんて言われながら、挫折感や劣等感にも苛まれ、再び拗ねてドロップアウトしてしまいそうにもなるが、この担任の先生は根気よく僕の夢話に付き合ってくれた。最後まで望みを捨ててはいけないと教えてくれた。

それと大きなアドバイスをくれたのが音楽科の先生。音楽の大学を受験したい、という相談に根気よく付き合ってくれて「3年生での選択授業では音楽を選択してはいけない!」という、音楽の先生としてはとんでもないアドバイスをしてくれた恩師である。

学区で最も偏差値の低かった我が母校では、音楽なんかを選択して遊んでいる暇があるなら、受験科目として重要な英語教科を出来るだけ多く選択せよ!という非常に適切なアドバイスなのであった。

限りなく寝言に近い夢を語る僕は19歳で高校3年生を迎え「有志ロック」の幹事を務める。同時にPA屋でのバイトを始めていた頃。文化祭ライブでのPAスタッフ1人分ギャラを僕の人件費として差し引いてもらい、照明機材の充実に当ててみたり。

大学受験シーズンが近づいているにも関わらず、僕は相変わらずバイトとバンドに明け暮れ、アッと言う間に訪れた秋の推薦入試は見事に不合格。この時は悔しくて泣けてきてしまったのだが。

凝りもせずバンドとバイトに熱中する日々は変わらず、ある日PA屋のバイト現場で出会ったプロドラマーがあまりにカッコ良くて、弟子入りを志願。ここから本気ドラマー人生がスタートしたと言っても過言ではない。

高校生最後の正月も明け、次は一般入試が待っている。にも関わらず入試の3日前にはライブ。入試も大事だがライブも大事。ドラムの練習をしながら英単語も覚えたし漢字の勉強も沢山していた。優等生達に比べたら中学生レベル、いや、それ以下の勉強かも知れないが、僕にとっては必死。

こんな状況なので友人達には裏で「アイツは大学進学は難しいだろう」と言われ、残念会&長坂を励ます会なるものまで企画されていたようだが、期待を裏切り大阪芸術大学芸術学部音楽学科音楽工学専攻に合格。

しかし僕の父親は大阪芸大への進学は反対。「音楽の大学なんてお嬢様の行くところだ」と典型的な古風オヤジ。それでも最終的に条件付きで許可を得たのは、4年で卒業しないのなら即退学、そして教員免許の取得が絶対条件。

ということで専攻の授業と教職課程の履修が必須となり、勉学に忙しくなる大学生活のはずだが、学業はソコソコに、やはり熱を上げるのはバンド・バンド・バンド。ドラム・ドラム・ドラムだ。

3年次には案の定、大阪芸大の文化クラブである「※ニューフォーククラブ」の熱血部長に就任。(※大阪芸大では軽音楽部から分裂したニューフォーククラブが文化クラブ連合で最大のクラブであった)軽音楽部やジャズ研究会との連携を積極的に計り、音楽系クラブ全体を盛り上げることに情熱を燃やしていた。

アッと言う間に訪れた4年次には教育実習。相変わらずのやんちゃ揃いで愛着のある母校に帰り、3年生の一番やんちゃなクラスの担任実習を受け持ち、校務分担実習は生活指導で控え室は音楽教師なのに何故か体育教官室。

授業実習と校務実習が終わると、毎晩のように入れ替わり立ち替わり、いろいろな先生方に呑みに誘っていただき、職員会議では毎回お前の名前が挙がっていたモノだ、という僕が高校生時代だった頃の苦労話を聞かせて頂いたり。

当時、新任の熱血体育教師は、もちろん相変わらずの熱血体育教師。「お前が学校でタバコを吸っていた話しなんかも授業で話題にしても良いぞ、そのかわり逃げ道だけは絶対に教えるな!」と言われてしまったことが印象深かった。どうやら僕は要領よく逃げるキャラだと思われていた様子。

そう、僕が筆頭になって「ここでタバコを吸おう」なんて、校内で様々な隠れ場所見つけて、日々みんなをぞろぞろ連れて歩いていたり。ただ、みんなが先生に見つかってしまった日には、たまたま女の子と話していたとかで、僕はソコに居なかったわけで、決して僕だけ上手く逃げた訳じゃないんだ、なんてことも話して逆に驚かれたり。

職員会議では、どうやってアイツのしっぽを掴むか、ということを先生方が必死になって話し合っていた、なんてことも教育実習の時に初めて聞かされたこと。いつも連れて歩いてたうちの誰かが先生に喋っちゃってるのよね、長坂に教えてもらったって。みんなを集めて夜な夜なお酒を飲んでたってことも。それが誰だか突き止める気は今も昔も全く無いけど。

でも実習期間の授業ではそんなことは話せなかった。当時22歳のの僕には、やんちゃな事を教えてしまったことにより、生徒達が暴走することを防ぐ自身がなかったから。「先生が学校でタバコを吸ってたって言ってたから俺たちもやるんだ」なんて言われても当時の僕には後始末を付ける能力なんて全くなかったもん。

アッと言う間に夢の4年間が過ぎ去り、問題なく無事に卒業。中学と高校の教員免許も無事に取得。ちょっとしたオマケで卒業制作の音楽作品に研究室賞が与えられたのが嬉しかったが、就職活動をするわけでもなく、教員採用試験を受けるわけでもなく、僕の目標はあくまでもプロの音楽家。

でも「音楽家」だ、と自信を持って名乗ることが出来るようになるまでには、さんざん苦労をし続けてきた。大学を卒業してからの5年間はクリーニング工場で働きながらのバンド活動。もちろんプロの音楽家だとは口が裂けても言えない状態。

毎朝6時に起きて7時半にはクリーニング工場のボイラーに火を入れ、春・秋の衣替えシーズンには毎日深夜まで働いていた。一時は楽器より洗濯屋アイロンがけの方が断然に上手だったと思う。挙げ句の果ては工場のマネージャーというポジションに就いてしまい、責任者として工場を仕切っている始末。

それでもしぶとく音楽を続けていると、じわじわと少しずつ人脈も広がり、音楽でお金が稼ぎ始められるようになると同時に、プロであるとの自覚を持ち始め、自分の出す音ひとつひとつに一層責任を感じ始めたり。

大学生時代からギタリストの押尾コータローと組んでいたバンドでは、ボーリング場のレーンの上で演奏するという妙な営業をやった時期もあったり、サンタクロースの格好をして心斎橋で演奏をしたこともあったり。その手の営業で業者がトンヅラしてしまいギャラをもらいそびれたり、なんて事もあったっけ。

この業界、そう簡単に軌道に乗ることのできる世界でもなく、同時に自分の表現したい音楽の欲求は幅が拡がり始め、今までやっていたドラムからは一歩引いて、もっと「自分の音楽」を前面に出した活動をしてみたいということで、キーボードやアコーディオンの世界に足を突っ込んだのが今から約8年前。

アコーディオンを始めたての頃は、7万円の中古アコーディオンを購入するのも清水の舞台から飛び降りるような出費。顔を真っ白に塗ったピエロメイク&衣裳でアコーディオンを弾くアルバイトや、オペラ座の怪人みたいな仮装、ときにはニワトリの格好をして、スーパーマーケットの中を練り歩きながらアコーディオンを弾いたこともあった。

ようやくここ数年で同年代サラリーマンの平均的年収に追いついてきたのかな?との実感は得たモノの、ツアーメンバーやスタッフも雇い、音楽制作事務所の代表として経営にも頭を悩ませながら休みなく必死に働き続け、気付けば心のゆとりが全く無くなっていた。もちろん有給休暇もなければ社会的な保証もない。

そこで昨年から音楽一色の生活から一歩引いてみた。僕自身のオーバーホールだ。音楽の仕事をグッと減らしてみて、実は週3日だけアパレル会社に勤めていたのだった。業務内容はパソコンを使ったDTPデザインのお仕事。

このDTPのスキルは、自分自身を音楽家としてプロモーションする際に、なんとかして自給自足できるパートを増やして外注コストを如何に抑えるか、ということで少しずつ実務の中で学びながら自然に身に付いていたこと。

そしてこの春、高校時代の音楽教師である恩師からの薦めで、学校へと出向くことになり、一年間勤めたアパレル会社には退職を申し出ようと思ったのだが、今春からの新しい営業展開もあり、DTP部門も不可欠とのことで週1日だけ勤続中。

というわけで、高校時代と教育実習生時代に恩師から習った柔軟で革新的な音楽の授業のスタイルを受け継ぎつつも、このような経験を積んできた僕でしかできない授業を、まず僕自身が楽しんでいる今日この頃。普通の先生には判らないことを僕は沢山知っているからこそ面白いのだ。

・・・熱い話しはまだまだつづく。

音楽家・アコーディオニスト、そして音楽教師:長坂憲道




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